はい。なんちゃって法華講員です。
一応仏教徒です。まぁ、日蓮正宗が仏教の枠に入るか、入らないかはさておき、
ここまで、本門仏立宗→顕正会→日蓮正宗と、およそキリスト教とは全く接点のない人生を送ってきましたが、
12月24日、思い切って妻と一緒に、「前橋カトリック教会」のクリスマスミサに出席してみました。
ということで今回、その詳細と、参列後の感想を記してみたいと思います。
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Index
なぜ?カトリック教会のクリスマスミサに参列してみようと思ったのか?
最近、キリスト教に激しく食指が動いてまして。
西洋の宗教史は、調べていくと物凄く面白いですよ。
ユダヤ教からの流れと、釈迦からの流れを、
アナロジーに捉えていくことで、「宗教」の本質が見えてくるような気がします。
要はそっくりなんですよね。知れば知るほど驚愕の連続です。
それは教義の面でも言えることで、分かり易いところでは、
「三位一体」と「三宝一体」とか。
類推すれば、それぞれの位置付けって大差ないんですよね。
大石寺教学は一神教の世界観に極めて近いと思っています。
とはいえ、「文章」という情報だけでは理解できる次元に限界があります。
「生」の宗教は、実際に触れてみて、初めて「体感覚」として、
リアリティーをもって肚に落とせるわけで。
そのためには「儀式」への参列が一番手っ取り早いんです。
勿論、そのうち縁があれば個人的にカトリックの方と対話も交えてみたいものです。
ちなみにすっ飛ばして読みたい人は、上の目次から「参列後の感想」へとどうぞ。
ミサとは?
ところで、「ミサ」とは何なのか?
日蓮正宗で、これに近しいものに置き換えて定義するならば、
要は、「御講」みたいなものかと。
キリスト教では、クリスマスはイエスの誕生日とされていますので、(起源を辿ってみると本来は違うのですが‥これについては↓を参照。)
クリスマスの本当の「意味」。由来と起源についてまとめてみた。
復活祭である「イースター」には及ばずとも、祭典としては非常に重要な位置付けであることは周知の通り。
聖書を読み、神父さんが説法をされます。
カトリックにしかない。
ミサはカトリック特有の行事で、プロテスタントではこれを行いません。
ちなみに妻はプロテスタントのミッションスクールを出ているのですが、
勿論、ミサに参加したのは今回が初めて。
日蓮正宗から派生した、創価学会や顕正会では御講はありませんから、
類推すると双方の関係性は驚くほどそっくりです。(※参照↓)
【宗教の性質】大石寺はなぜ分裂するのか?西洋の宗教との類似点。
このことに関しては、以下、適宜述べていきます。
ミサへの参加は自由です。
もしかしたら、洗礼を受けている人しか参列できないのかな?と思い、
念のため電話で聞いてみることに。
すると、女性の方が出られ、「クリスチャンではないのですが…」と伝えると、
温厚な趣で「是非どうぞ!」と仰って下さいました。
ということで、颯爽と教会へ!
なんだろうこのワクワク感。好奇心で胸が高鳴ります。
礼拝堂へ入ってから開会まで。
神々しげな施設の様相を前に、一瞬ひるむ僕。
さて、生まれてこの方、一度も訪れたことのない場所、礼拝堂の中へと足を踏み入れる…。
くつを脱ぎそうになった僕。
いやぁ、
すっかり仏教様式に慣れ切っているもので。
礼拝堂の入口にて、危うく「くつ」を脱ぎそうになってしまいました。
ふぅ、危ない危ない。
着席。
入場して、おどおどしていると、神父さんがやさしく案内してくれました。
「これとこれですよ。」と、入口の台の上に置かれたパンフレットとキャンドルを手に取り、なるべく後方に着席。
このアイテムは後に使うことになります。
続々と集うクリスチャン。そして開会。
開会時間に近づくに連れ、多彩な国籍の方々が続々と参集します。
フランス人、韓国人、フィリピン人、ブラジル人、ベトナム人etc…。
ベトナム文化のカラーからは、印象として、キリスト教とは馴染みが薄いような気がしますが、
調べてみたら、仏教徒の次にカトリックが多いことが分かり意外でした。
でも良く考えたら、ベトナムは一時フランス領だったわけで。(しかし得意の穴掘り攻撃で撃退。)
なるほど。
敬虔な方は入場に際して十字架を切ります。
空席はあっという間に埋め尽くされ、開会時には礼拝堂が200人以上のクリスチャンで一杯になりました。
ミサ序盤。
会場が徐々に暗くなったかと思うと、
「イザヤの予言」を読む神父さんの声が堂に響き渡りました。
薄暗い中央の通路を祭壇に向かってゆっくりと歩む、神父さんと子供たち。
子供の代表が、祭壇の前に設けられた「かまど」から火をもらい、
そのたね火を皆のキャンドルに移して周ります。
人数分のキャンドルの火で灯された礼拝堂は、幻想的なムードに包まれました。
「きよしこの夜」合唱。
キャンドル片手に、皆で「きよしこの夜」を合唱し、
いよいよクリスマスミサの幕開けといった感じ。
ここまで慣れない雰囲気に接し、若干ブルッてた僕でしたが、
温かなムードに接するうちに、いつしか心は和らいでいました。
ちなみにミサの大部分は「歌」で占められているといっても過言ではないほど、
何曲も歌を歌います。
妻いわく、プロテスタントでは歌わないものがあったり、
また、曲が同じでも歌詞が全然違うみたいです。
キャンドルはあまり灯しておいても危ないので、ある程度したら各自で消火します。
ミサ中盤。
その後の大まかな次第は、「神父さんが聖書を読む→歌う」の繰り返しでした。
一つ一つの意味は全然わかりません。
神父さんの、カタコトの日本語での説法は興味深い内容で、
イエスの「個人主義」の精神を解り易く説いてくれました。
神父さんがパリに滞在していた際のクリスマスの日のこと。
大きな袋を下げた初老の男性に出会った。
袋には沢山の人形が詰まっていて、
男性は、「貧しい子供たち」に、これらを配ろうとしていたのです。
神父さんが、それはどこで手に入れたのかと問うと、
「ゴミの中から新しいものを選り抜きして拾ってきた」と。
たとえ自分が貧困であったとしても、尚「与えよう」とするその姿に、
神父さんは、「イエスの精神」を垣間見た思いになったのでした。
ミサ終盤。
途中、奉納の儀式が設けられていて、子供たちが網を持ってさりげなく集金に周り、
それらに各種貢物を加え、祭壇に捧げます。
また、神父さんが「あなたはイエス・キリストを信じますか?」
「永遠の命を信じますか?」
と問いを投げかけ、皆が「信じます」と答える場面があるのですが、
「宗教違う人は無理に答えなくていいですよ。」と、わざわざ前置きして下さったことに神父さんの寛大な心根を感じました。
祝福。
祭壇の前にて神父さんが、「頭に手を当てて」祝福して下さるということで、
中央通路の行列に交じり、順番を待ちました。
これは洗礼を受けてない人でもOK。
初めて尽くし、目の前に用意された「新鮮な体験」。
僕は貪るように知的欲求を満たしていきます。
ミサ終了。
隣接する施設にてパーティーの用意がされている旨のアナウンスがありましたが、
家は家で、鶏肉とワインとケーキを用意してあったし、洗礼受けてない人間が参加するのはいくらなんでも厚かましいですからね。
ちゃっかり「お菓子袋」を貰って、礼拝堂を後にします。
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参列後の感想。
カトリックって今回ミサに出席するまでは、「怖い」イメージがあったんです。
何か「血塗られて」いるような、冷酷な、そんな先入観があったんですが、
それは、「アンチカトリックのプロパガンダに躍らされていただけ。」
に過ぎなかったということが、ハッキリと分かり、
その意味で、大変意義深い体験をさせてもらいました。
「ダヴィンチ・コード」などの作品はその最たるものですが、
(ダン・ブラウン氏に悪意があったかどうかはわかりませんが…)
そういったものが、カトリックのイメージを失墜させ、視聴者に悪い印象を植え付ける、ある種のラベリング行為であったことに気付かされました。
いつの間にか形成されていた、カトリックへの偏見。
今回、クリスマスミサに出席し、その雰囲気を肌で味わったことで、
そういったネガティブなイメージは一転しました。
カトリックはとても温かいのです。
プロテスタントであった妻も言うのだから間違いありません。
両者のクリスマスの違いを端的に言えば、
プロテスタントは「厳粛」であり、カトリックは「温かい」とのこと。
今まで、まるで反対のイメージを懐いていましたが、
会では参列者が両サイドの方と手を繋ぐシーンがあったり、
互いに尊重し、且つ、微笑ましい雰囲気。
カトリックのクリスマスミサは、「愛」に満ちた祭典でした。
神父さんがペコペコ。
体験の中で特記したいのは、
神父さんが「ペコペコ」と何かにつけて「お辞儀」をしていたことです。
ローマや海外のカトリック圏では基本的にお辞儀をする慣習はありませんので、
つまりこれは、「日本の慣習に合わせてくれている」ということです。
聖書の朗読もてっきり、ラテン語→日本語なのかな?と思っていたら、
日本語→英語でしたね。
第二バチカン公会議(1960年代)以前は、ラテン語オンリーであったことも考えると、
公会議を境に、真の意味で「慈愛の精神」を顕現する教団に生まれ変わることが出来たのではないかと推測します。
阿(おもね)ない、靡(なび)かない、「教会以外に救いの道はない」と、
かつては高圧、排他的だったカトリック教会。
柔軟性に欠け、未だ内輪揉めの抗争に追われているどこぞの団体の人たちとは一線を画す、輝かしい姿がそこにありました。
三十年戦争をはじめ、過去への反省から、
協調路線に転じた現在のカトリック教会には敬意を表したいと思います。
クリスマスには「イエス」に感謝してみては?
特定の教派の儀礼に縛られず、且つ、基本的に何でも「感謝」する精神が旺盛な日本人ですが、
多くの邦人が、クリスマスを単なる「パーティー」で終わらせず、
「イエス」に感謝するという意味で、もっと気軽にクリスマスミサへ参列してみても良いのではないかと思います。
起源を辿れば元来は「農耕祭」なわけですし。
初めて日本人の手によって教会を建設し、当時、政界とも強い結びつきがあった「新島襄」や、
「内村鑑三」、「新渡戸稲造」。
その他多くの偉人らを介して、
「イエスの精神」が日本の文化に与えた影響というものは、決して軽視するべきではないと思うのです。
感謝をし、その心を皆で分かち合う行為というのは、精神衛生上、良い効能も期待できます。
ほっこりします。穏和な気持ちになれます。
自己の宗教性が洗練され、文化への深い関心が得られます。
どなたでも気軽に参列することができますので、
是非一度は出席してみると良いですよ。
こんにちは。
私も日曜日仕事ばっかりして、信仰のことなど忘却の彼方のユタでございます。
実は、日蓮正宗からキリスト教に行ってしまった人達を知っています。
「日蓮正宗は冷たい」らしく、私も冷たい人間だから宗門にいるんですが、ミミさんの体験談を見て、「ああ、なるほど」と思いました。
今、宗門では広宣流布に向けて布教活動に勤しんでいますが、ガチガチに折って伏す折伏とドロドロの法論に明け暮れている人達に「慈悲とは何ぞや?」ということを改めて考えて頂きたいと思いました。