生きる意味が分からない?仏教が出した意外な回答とは!?

「死んでないんだから生きている」。それが答えです。

(中略)

大切なことは「なぜ生きるのか?」ではなくて、「いま、なぜこれをやっているのか?」です。「なぜ生きるのか」と聞くならば、答えは、「あんた、死んでないから生きているんだ」でおしまいです。

(中略)

みんな変な思考、屁理屈な思考で、「生きる意味」を探しているのです。

何かわけがあって神様が作ったのではないかと思うなら、それは神様の勝手だからほっとけばいい。

生きる意味は神様だけしか知らないと言ってしまうと、それはすごく無責任な生き方になります。

(中略)

生きる意味は、ちゃんと目の前にあることだけです。総合的にまとめると「死んでないから生きている」だけのことです。

「ブッダの幸福論」の著者と、仏教について。

上記は、アルボムッレ・スマナサーラ長老(以下、スマ長老)が著されたブッダの幸福論に書かれている内容です。

スマ長老はスリランカ出身の僧侶で、主に「南伝仏教」に精通されています。

仏教は大まかに「北伝」(大乗)と「南伝」(上座)の二種類のルーツに分かれるといわれていまして、

中国を経て、日本に渡ってきたのは「北伝」の部類ですが、

これは伝播の経過を辿るなかに、ヒンズー教を始めとする、様々な影響を受け、

日本に到達するまでには随分と変容してしまったのです。

一方、南伝仏教はというと、ここには釈迦の原初的な教えが保存されていまして、

実は、日本仏教の基盤を作った祖師たちは、この原典ともいえるものの「存在を知らずに」仏教を理解していた部分がありますので、

有る意味、我々が馴染みの深い日本仏教とは、性質の異なる教えが含まていて当然です。

アルボムッレ

スマ長老は、そのような「本来の釈迦の教え」から外れた思想が蔓延している状況を憂え、

多くの本の出版などを通じて、「本当の釈迦の悟りとは如何なるものか」を日本人に伝えるべく尽力されています。

生きる意味などない

さて、「生きる意味」についての釈迦の回答ですが、極めてクールです(笑)

しかし、この言葉の裏に含まれているのは、正に仏教の要諦であり、至って混じり気のない、仏様のピュアな思想なのです。

十四無記

釈迦は、弟子達からの質問に対して、いくつか回答、解説を拒否した項目がありました。

これが「十四無記」と言われるものです。

1、世界は実在するのか?
2、世界は実在しないのか?
3、世界は実在、且つ、無常なのか?
4.世界は実在でも無常でもないのか?
5、世界は有限なのか?
6、世界は無限なのか?
7、世界は有限且つ、無限なのか?
8、世界は有限でも無限でもないのか?
9、身体と魂は一つなのか?
10、身体と魂は別なのか?
11、如来(修行完成者)は、死後存在するのか?
12、如来(修行完成者)は、死後存在しないのか?
13、如来(修行完成者)は、死後存在し、且つ存在しないのか?
14、如来(修行完成者)は、死後存在するのでも、しないのでもないのか?

釈迦の教えは現実的、且つ実利的。

釈迦はなぜ、弟子の回答を拒否したのでしょうか?

それを理解するために分かり易いのが「毒矢の例え」です。

毒矢の例え

例えば、医者が毒矢に射られた人を診るとして、

その際に、誰に射られたのか?その人はどんな人だったのか?その矢はどのような性質のものだったのか?

もしこんなことを質問していたら、その間に患者は死んでしまいますよね。

それよりも、まず現実に起こってる問題に素早く対処しなければいけないはずです。

釈迦の教えは極めて現実的であり、且つ実利的なものなのです。

なぜ?「生きる意味」などを考える羽目になるのか?

冒頭の内容ですが、このことについてスマ長老は、著書のあとがきで以下のような説明を加えています。

生きていられなくなるほど人生が複雑になったり、トラブルのどん底に陥ったりする主な原因は、「命は尊いのだ」という何の根拠もない感情的な考え方にあるとお話してきました。

生きることには尊い価値がある、授けられた命なので、粗末にしてはならない、命とは神様から人間だけに与えられた永遠不滅の宝物だ、などとよく言われます。

それはすべて、生きることに大事な意味があるのだ、生きることに何か目的があるのだ、命に価値があるのだ、という考えによるものです。

しかし、感情的な感想であるこの考えのおかげで、生きることは極限な苦の連続になっているのです。

そこで本書では、感情に騙されることなく、論理的に、「生きることには意味は成立しない」と、単純に言えば、生きることには何の意味もない、無意味な行為であると指摘しました。

普通、充実した人生をおくっている人は、「生きる意味」について、少しは考えることはあったとしても、思い悩むほどのことはないでしょう。

しかし、「生きる意味」について深く考える人は、前提として、「生きることに意味を見いだせていない」わけで、

「尊いのだから」とか、「感謝せよ」と言われても、そんなことはできていたら苦労はしないという話になってしまうのです。

「うつ病に、頑張れ!」みたいな。

無理です。それは言ってはいけないことであり、心に響きません。

「宗教団体」は人に生きる意味を与えます。

宗教団体は人生に意味を与えようとします。

例えば、日蓮系の教団では、宗祖の言葉を引用して

今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり

などといって、

「あなたはこの宗教に出会うために今まで生きてきたのだ。今後は成仏を叶えるために慎んで励みなさい。それがあなたの人生の意味である」

と、説くわけです。

ここに「使命」などという言葉が都合良く充てられたりするわけですね。

しかし、どうでしょう?

本来の仏教の説くところ、「生きる意味」などは存在しません。

しかし、宗教団体が人々に与える、独自の価値観に基づいた「生きる意味」は、

得てして、自由な思考を阻害するものです。

宗教を「否定」するわけではありませんが、

過去、哲人ニーチェが、この教団の性質を「奴隷道徳」と称して批判したことは有名ですね。

それよりも、

「そんなことを考えている暇があったら、今現実に直面している問題に真剣に取り組みなさい」

これが仏教的回答です。

では具体的に「どのように生きれば良いと教えているのでしょうか?」

生きるために必要な「3つ」の必須項目。

スマ長老は生きるために必要な行為を「3つ」に絞って示しています。

1、学ばなくてはいけない。

2、仕事をしなければいけない。

3、社会の一員として生きなければいけない。

これらの「やらなければならないこと」を如何に充実感をもってこなせるか?

これを実行するために、仏教では「智恵の開発」こそが重要であると説いています。

またそのことを助け、促すことが、ブッダの教えの本質なのです。

「人生」を有意義に過ごしたい?であれば「本当の仏教」に触れてみよう。

スマ長老のお話は、中学生でも理解できるくらい、難しい言い回しを避けて、平易な文章、文脈で語られていますから、

たとえ仏教の素養がなかったとしても、心配は無用です。

釈迦の悟り、原初的な仏教のエッセンスが凝縮されたスマ長老の著書。

人生に「迷い」が生じたら、是非触れてみてはいかがでしょうか?

原始仏教の入門書としてもおすすめです。

また、「あるある」の質問をプロブロガーのイケダハヤトさんが投げかけ、スマ長老が釈迦の教えに則して回答をする、対談形式の以下の本もおすすめです。

こちらに関しては、前編のみですが、一応過去に書評も書いてます↓

プロブロガー「イケダハヤト」さんが「仏教」を考える。【仏教は宗教ではない】を読んで。

(※前編と後編に分かれてます。)

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