信仰者こそ世俗的な努力によって自分を許す力を磨くべきではないか。

この話を聞いて、もし瞋恚を起こしたのならば、その人こそまさに話の中の「許せない人」に符合するのではないでしょうか。

顕正会員さんであれば、「千手観音の話が出てくるから謗法だ」とか、「そうはいっても大聖人様は、他宗を叱責してまわられたではないか」とか。

仏法の教義信条に反すると。しかし、果たして本当にそうでしょうか?

信仰活動に傾倒し過ぎないために。

あまり教義の深い事までは良くわかりませんが、少なくとも僕は「一心即法界」という妙理を信じているし、「許せない心」から生じた言動によって布教を推し進めていくならば、多くの場合、最後に待ち受けているのは、破壊的な結末ではないでしょうか。

幸せになるために実践する信仰活動が、

かえって自分を苦しめる結果となってしまったならば、

これは本末転倒です。

極論で「自爆」しないために。

万法には、仮、空、中の側面があり、就中「中道」に極まるのだから、あくまで「正しいと信じる」信仰スタイルだと弁えた上での「自行化他」ということを、肚に据えて実践しなければトンデモない果報を招くことになると思います。

というと、「法華講員のアンタが何を言うか!」と思われそうですが、

僕は折伏自体を否定しているわけでは全くなくて、あくまでこの話の「先」に折伏という修行があるのだと思ってます。

縁とは、決まり切ったものではなく、自らが拓いていくものです。

遠い縁がそのままなのも、それを自分の近くに招き寄せるのも。

もともと近くに用意された縁を受け入れるのも、避けるのも、そして大事にすることも。

自由は保障されているし、制限されていると思うのは自分の心です。

この話を良い話だと思って自分の心に実践的に取り込むことも、嫌悪して遠ざけることもあなた次第。

紹介した「斎藤ひとり」さんは世間的な成功者で信仰とは無縁かもしれませんが、

たまにはこういった方のお話にも耳を傾けてみるのも良いですよ。

とにかく信仰活動に傾倒し過ぎるのは有る意味「危険」も伴うということをお伝えしておきます。

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『信仰者こそ世俗的な努力によって自分を許す力を磨くべきではないか。』へのコメント

  1. 名前:トチロ~ 投稿日:2015/03/01(日) 07:45:26 ID:2164d1534 返信

    おはようございます。

    「許す」ということの重要性は色々な人が話されていますね。私が仕事面で勉強させて頂いた市川先生(福岡の警備会社の社長で、著述家、講演家でもあります。)という方も、幸せになるための人格の最高位にこの「許す」という境界をあげています。

    ミミさんが紹介くださった斉藤一人さんと親交があらられたと言われている小林正観さん(故人)も一人さんと同様のことを「楽に楽しく生きる」という御自身の著書に書いておられますね。

    これらの信仰とは関係の無い方々でも、徹底的に世間の事象を突き詰めていくと、最終的には仏様の説かれたことと同じ結論に至るということでもありましょうね。

    私たちは有り難くもその結論部分を御僧侶方から先に教えて頂いてもらっているわけですから、これらの信仰とは関係ない世界で真理を突き詰めていく方々の主張もまた大きな心で受け入れながら、彼らの到達した現時点の立ち位置の先にある真理を多くの方にお話ししていけると良いですね。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/03/01(日) 14:37:54 ID:eabd74917

      トチロ~さんへ。
      こんにちは(^-^)コメントありがとうございます!
      小林正観さんや市川先生ですか。ちょっと勉強してみたいと思います。
      御聖意は難信難解なもので‥特に最近は世俗的な論に立ち返って自身の言動を顧みるということも重要なのだと思っています。
      また、世法の道理も仏法の道理に包含されるわけだから、世法の道理を違えている状態では、仏法の道理も正しく理解、実践し得ないとも思います。
      顕正会という狭い視野での環境にしばらく身を置いていた僕にとって、こういった話はある意味目から鱗なのです。
      世間的に人格的、経済的など様々な観点で、まだまだ低いレベルにいながらも、「仏法(顕正会の)を実践しているのだから全然OK!」としていた過去の僕は本当の大ばか者でした。

  2. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/03/01(日) 22:01:28 ID:af009259c 返信

    ミミさんこんばんは。

    面白いお話でした。ありがとうございます。

    僕がこのお話を聞いて思った事は、「論語」読みと「易経」好きの差かな?ってことでした。「論語」は孔子に憧れていた人たちが、孔子を生き方のお手本にしようとして作りました。「易経」は孔子が読んでいて本であり、易占いの教科書でもあります。

    「易経」は逃げる事を勧め、謙虚であることを勧めています。謙虚であれば万事問題ないと言っているようにも思えます。「論語」や「孟子」は「こうあるべき」という理想主義です。

    日本人は理想主義の考えが好きですので、そういった人は自分も責め、人も責めるようになるのではないかなあって思います。

    私は十円玉と百円玉で、易占いをよくします。厳格な法華講員さんには叱られそうですが、自分の深層意識に本心を確かめるつもりで占いをしています。これがよく当たるのですが、ランダムにシャッフルした6枚の硬貨が、だいたいいつも同じような並びで出るのに驚いています。ユングの言う「意味のある偶然」でしょうかね。

    たいてい「うまくやり過ごせ」というお告げが出ます。そしてどのようにすればうまくやり過ごせるかが、その出た目の文章に書かれています。そんなのは人間として卑怯だと思ってしまえば、自分を取り巻く環境とぶつかり摩擦やトラブルが生じてきます。

    私たちの信仰も御本仏様をお手本として教えられますから、身の丈にあわないような理想主義にがんじがらめになりやすいですよね。信徒さんは、法華講も創価も顕正もまじめな人が多いので、心が縛られやすいのではないかなあって思います。

    私は開き直って、信心は弱い者がすがりつく為にあるんだって思っています。実際、私はロクでもない人間ですし、心の折れやすい根性無しです。それでも、大聖人様にすがってこの世知辛い世の中で生きて行く力と智慧をいただきたいと祈っています。

    自分を許すって本当に大事だと思いました。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/03/04(水) 20:25:50 ID:dc42c9d96

      ポリ銀さんへ。
      こんばんは★
      僕は儒教についてあまり深く勉強したことはないので表面的なことしかわかりませんが、論語、易経の違いとは、確かにイメージとしては核心を突いてるなぁと思いました。
      根性無しの僕は論語的な考え方だとどうしても苦しくなってしまうので、ちょっとズルいようでも易経的な考え方の方が楽でいられます。
      本来の自分って、と考えたときに顕正会の入信を機に作り変えられてしまったような気がするので、今は縛られた心をほどいているような感覚ですかね。
      水ならば中和でしょうか。PHが偏った状態では川に流せませんもんね(笑)
      ひとりさんは何よりも「実績」があられるので言葉に重みがあると思います。