返信先: え~、皆さんの顕正会時代の武勇伝をお聞かせ下さい。

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#4732
(勝手に)地涌の流類
ゲスト

山門の入口殿

失礼、当方宛てに返事を戴いていた事にずっと気付きませんでした。
もう随分前に戴いていたのですね。

>>ところで、顕正会の勤行への疑問って、具体内容は何ですか?

→五座・三座の勤行を一座にして遙拝にした根拠です。

ああ、五座三座と遥拝が・・・。
しかし、五座三座を知って居られたという事は、ご家族が宗門や法華講の人であったのでしょうか。或いは創価・・・。
当方は入信時には、五座三座どころか勤行自体が始めての経験でした。
てっきり幸福になれる壷でも買わされるのかと思いきや、お経を唱える・・・?と肩透かしを食らった感じがしました。その後しばらく後に先輩に率いられて会館に行っても、うわっ凄いとこ来たな、皆真面目に唱えてるし・・・。という感慨くらいしかなかったですねぇ。

>入信勤行のときに会館で買える書籍を買いあさって、諫暁書と合わせて全て読みました。

凄いお得意様・・・。
私はお金が勿体無いので、買い漁るなんてとても思いもよりませんでした。せいぜい折伏理論書を購入するくらいでしたね。でも、先輩や紹介者が色々と買ってくれたので(御経本と御数珠まで!)、ありがたく活用させて戴きました。

>そこで、ちまたで言う武勇伝ばあkりで、肝心な法義とかが皆無。

まあ、御遺命守護の戦いだとか諫暁書の辺りはそうでしょうね。それがテーマの本なので。
顕正会は正宗教義だけでなくて、御遺命守護に就いてもきちんと説明する必要があるんですよ。何故ならば、それが会の設立理由でもある訳ですから。
逆に言えば、正宗信徒でありながら、何も理由がないのに勝手に宗門を飛び出して会を作ったのだとしたら、キチガイですからね。

>折伏理論解説書にしても、中身がほぼない。

うーん・・・山門殿の仰る「中身」の定義って何でしょうね?
人生の目的から始まって、幸福論、幸福になる為の方法、成仏、成仏を説いた大聖人の教え・・・と順を追って合理的に説明されている感じがしますが・・・。

>そこで、ネットでも調べたわけですよ。
>そんな中で、月水御書の一説を見て、あて違うジャン。
>松野殿だけが根拠にならないと言うことで、本部に突電したわけです。

そうだったのですね。
然るに、月水御書こそ、顕正会の勤行の正しさの一つの文証と言って差し支えがなさそうですがねぇ。

月水御書では最初に、法華経を一字一句でも唱える功徳の素晴らしさが力説されています。特にどの品だとかどのくらいの長さとかは指定されていません。亦、(他の御文でもそうですが)御題目こそが最も重要で、十分条件である事も説かれています。
では、寿量品や方便品を唱える顕正会の勤行に根拠はないのかといえばそうではなく、月水御書では続けて、法華経であればどこを唱えてもその功徳は計り知れないが、敢えて言うのであれば、方便品と寿量品が良い、と御指南されています。その理由は、方便品は法華経迹門十四品の要であり、寿量品は法華経本門の要であるから、とされています。こうした御指南は他の御文にもあります。

然るに、どこにも五だの三だのという数字は記されていません。だから月水御書を文証とするならば、五座三座は必要ない、という事になります。

そもそも、大聖人が五座三座を弟子に指導なさっていたのならば、仙代問答などは生じなかったでしょうしね。五とか三とかいう数字は、恐らく日本の(恐らく神道系の)風習から江戸時代あたりに来たものでしょう。七五三とかお節句や雛祭りにその例が見えます。
中国では、整っている偶数が好まれる事が多いですが、日本ではバラバラに切り裂かれないという理由で奇数が好まれる事が多いのだとか。

>>まぁ、是で「広宣流布」とかは難しいでしょうね。まあ沖浦殿が常々主張されているような「現証勝負」ならば行けるか?然るに、ちょっとした質問が出る度に除名していては、盲信さんしか流類にならないのでは。

→現証勝負もダメでしょう。
>第一に、顕正会の信仰で起きたことと証明できない。
>第二に、客観的な事柄ではなく、主観的な事柄ばかりですから、顕正会の信仰でとは証明も出来ない。

第一と第二の違いは、第一は客観的な事柄であったとしてもなお関連性が示せないという事で、第二は主観的な事(幸福を感じる)が多い、という事でしょうかね?

まあ、この辺りの事情は宗門・法華講でも同様でしょう。

>第三に、他宗教でも顕正会で言う功徳(現証)がある。

まあ、実際問題そうなのです。
癌が治っただの、脳施肥麻痺が治っただの、医者も驚く信じられない現象や、津波で顕正会員の家だけがなぜか流されなかった(周囲は全て流された)という信じ難い功徳例もありますが、そういうのを除くと、どこにでもありそうな事が多い訳です。

顕正会で登壇されているくらいの功徳ならば、創価の大会や会合でも度々発表されています。恐らく、法華講とかでも功徳の発表会的なものはあるのではないかと思われます。
そして、現世利益も謳っている宗派ならば、やはり同じような発表があったりするでしょう。前は引きこもりだったのに、この信心のお陰で前向きに生きて行けるようになりました、とか、仕事が認められボーナスが貰えました、とか、家が隣の家の失火で燃えましたが、保険で前よりよい家になりましたとかならば。
もっと言えば、無宗教の人にも普通に起こる事です。所得という事で言えば、大聖人の仏法とは全く無関係なビル・ゲイツの方が遥かに金を持っていますし、平均として言ってもクリスチャン主体のスイスやルクセンブルク人の方が大聖人門下の人々よりも高いでしょう。

さて、そういう場合、正宗系では「あれは前世の福運が残っていたから」とか「魔の通力」とか「努力の結果」という事で片付けます。ところが同じ現象が自分達の教団の人に生じた場合は「功徳」となります。
他方、他の教団や無宗教の人が不幸になると「罰」という事で片付けたりしますが、自分達の教団の人が信心していたのに不幸な目に遭えば「魔障」だの「罪障消滅」だのと説明します。
然るに、このように或る現象を以て一つの結論(功徳とか罰)を導けないのだとすれば、現証論とは欠陥理論だという事になりましょう。

では、御書に明確に御指南のある「現証」とはインチキなのか?
そこで、考え直さねばならないのは、「果たして、大聖人の仰せの現証とは、世事での幸福の事なのか?」という事です。仮に、そうだと仮定すると、熱原三烈士は遥かに現証勝負で一般人に負けてしまっている事になります。そこで、単に世事での幸福の事などではないのではないか、という事を視野に入れて、よくよく考え直さねばならない事かと存じます。

その辺りが突き詰められてないと、現証勝負と言っても、ルールがない状態でゲームを始めるのと同じで、まともな勝負は付かないでしょう・・・。

>しかし、沖浦教祖様との現証勝負ならいい勝負が出来そうですね。

ただ沖浦殿は実際に祈りと闘いで何度もどんぞこから這い上がって居られますからね。そしてその結果、世界大会で三連覇ともなっているので、なかなか手強い敵になるかと思います。
一般的な顕正会員だと、なかなかそこまでの現証を持つ人は少ないでしょうから。

但し、上でも述べましたように、突き詰めて考えてみますと、沖浦殿の盛んに主張される「現証第一」というのも、再考が必要な事柄であるように思われます。