日蓮正宗の宗教倫理の独自性と、布教の非合理性について。

前回の記事では、現代において有効的な社会倫理という観念が、古来より特定の宗教的信条によって生起、及び、強化形成されてきた、その蓋然性を大まかな見解として記した。

(※参照リンク 日蓮正宗信徒の「臨終の相」の映像から、宗教と倫理について考える。)

ただし現実問題として、特定の宗教倫理と一般に流布する社会倫理の間に大きな乖離が存在している以上、前者を全面的に押し出すことは、教団と世間との軋轢を助長する悪弊をもたらし、

結果的に、布教を宗是とする教団の基本方針と逆行するという矛盾をはらんでいる。

今回はその点について、もう少し掘り下げた論考をしてみたいと思う。

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多様な宗教倫理の接点。

遺体にある種の宗教的な、あるいは警世的な(つまりはジャーナリズム)意義を付与して一般公開に及ぶケースは、一旦そういう視点に立って世を見渡してみると枚挙に暇がなく、

しかも倫理的妥当性の議論を欠いたまま平然とまかり通っているものがその多数を占めている。

トルコ沖に打ち上げられた三歳児の遺体。

まず後者の方だが、真っ先に具体例として頭に浮かび上がってきたのは、一年余前に起きた、三歳児のシリア難民がギリシャにボートで渡ろうして転覆し、遺体としてトルコ沖に打ち上げられたという件である。

各国の思惑が交錯し、代理戦争の舞台となっているシリアでは、累計で既に数百万人の人々が各自の生活圏を捨て、身の安全を確保するための旅路に着くことを余儀なくされている。

彼らは主に厚遇への期待と望みから(貧困者は陸路を甘受している場合が多いらしい。)陸路と航路を使い分け、最終的にドイツを目指す者が後を絶たないようだ。

しかし、その道のりは決して安逸なものではない。(最近でもトルコ国境において難路が断たれ、人が滞留している問題がクローズアップされている)

この悲惨な現実を対岸の火事のように静観していた先進国のリーダーの目を覚ましたのが、先述の三歳児の遺体の写真であったことは記憶に新しい。

一時的ではあったが、実際にこの生々しい写真が、シリア難民に対する各国の問題意識を引き上げ、協力的な機運を作り出すきっかけをもたらしたのは確かで、

遺体に内包された切実なる意義について考えない「人間」は一人としていなかったはずである。

「十字架」圏とその異文化の相互理解。

遺体に宗教的意義が付された実例の最たるものと言えば、「十字架」を差し置いて他にその影響力に比肩し得るものがあるだろうか。

勿論実写ではなく、「象徴」として広く認知されたものであるが、それでも一瞥して快く思わない多数の人々の存在を全く無視して良いものかという、差し迫った議論に及ぶことは現実的に起こり得ないのだ。

その筆頭は、世界に散在する16億人のイスラム教徒である。

彼らは可視的な宗教的象徴を是としない教義信条をバックボーンとしている。廟を建設するのが精々で、いかなる概念も象徴化して崇めてはいけない、いわば「タブー」が文化的な次元で心底に深く根付いているわけだ。

だからといって、教義的解釈を争点とするような対立に発展することはないが、彼らは決して十字架を心情的に快く受容はしないはずだ。

謗法禁忌を持つ少数派教団。

更に大石寺門流でも「謗法」という観念があるが、

一部、例えば一昔前の創価学会や、顕正会などの信条に基づけば、十字架は彼らに強い不快感を与える最もネガティブな象徴に違いない。

僕は実際にその経験者であるから、実感をもって理解できる。安心して視聴していた映画などに突如そのような描写が入ると、一気にその作品の醍醐味、全体的評価が失われてしまうのだ。

ところが、なぜ、そのような描写が世間では暗黙のうちに是認されてしまうのだろうか。

マジョリティーだから許されているのだろうか。そういう功利的な概念の闊歩が、欧米主導のグローバルスタンダートだから仕方ないのだろうか。

しかし、イエスの教えは徹底された個人主義のはずである。

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日本という土地柄における布教方法の非合理性。

ここまで、特定の宗教倫理による、本来であれば摩擦が表面化されてもおかしくはない事案をもとに、

十字架を許容する、主にカトリック帰属外の他者の態度に例をとって簡略に見てきた。

ということで、そろそろ核心に触れてみたいと思う。

日本人の宗教情操。

穢れ。

これは、日本の文化に根差した宗教的情操である。

穢れがあるから、塩を盛る。

喪に服したりする慣例もここから派生しているわけだ。

一般的な周知レベルでは「古神道」にその端緒をたずねることで知られているが、

どうやらこの観念は、実際には仏教の輸入とセットで日本に持ち込まれ、律令制などの経過を経て徐々に体系化されていったようである。

この情操が、一般的な日本人の「遺体嫌忌」を増長させている実情に、果たして異を唱える余地があるだろうか。

YouTubeなどでも、恐らくこうした国民の「宗教性に準ずる不文律」は十分に勘案、考慮されていて、

忌々しい内容の動画であっても、海外では視聴できるのに対し、「国内ではブロック」ということは恒常的に発生していると思われる。

つまり、日本人が持ち合わせる民族宗教的な禁忌事項が、そのハードルを作り上げているはずなのだ。

そもそも合理性など皆無。

宗教倫理という視点から遺体動画の是非を考察した場合、どちらか一方の倫理観がひどく欠落していると言い難く、

つまり、「特定の宗教倫理」が「特定の宗教倫理」に対抗するという構図が浮かび上がってくる以上、そこには甲乙というより、価値観の対立があったという事実に過ぎない。

ただし冒頭で述べたように、あえてそのエリアにおいて、嫌悪や波乱を惹起させるような布教の手段をとることは果たして「合理的か否か」ということだが、

実はこれに関してはそう深く考えるに及ばないはずである。

なぜなら、「我こそが正しい」と標榜する時点において、高々と掲げれられた教法流伝のスローガンは根本的に瓦解していると言わざるを得ないからである。

その排他的姿勢が問題の根っこの部分ではないだろうか。

更にひいては他の価値感を包摂しながら変容し、発展を遂げてきた宗教の本質。あるいはそういった歴史的文脈の価値体系への否定に繋がりかねないわけで、

(実際に信徒はそういった偏狭な自賛型の優性論的な思想に支配されていくのだ!)

常識的に考えて、そもそも、そのような価値観が世界に受け入れられるはずがない。

現代という文脈から。

日蓮の折伏は天台の教相判釈が妥当性、有効性を帯びる土壌の上で展開された。

(空海や道元のように、もし日蓮が大陸渡航の経験を踏んでいれば、日蓮正宗は今とは違った展開を見せていたかもしれない。)

しかし現代、その有効性は瓦解し、単一民族のテーブルではなく、世界というテーブルの上での議論が求められているのである。

布教の足場を固めるには、キチンとした議論の蓄積と、その正当性を裏付ける「普遍的な価値観に基づいた」ロジックの形成が必要不可欠であり、

もし、そこを蔑ろにするのであれば、これは「布教の精神」とは上辺だけの、「その教義を信じる者」に対する口当たりの良い「偽善文句」と解釈されても、そこに反駁の余地はなく、

つまり、張子の虎であり、裸の王様であって、遺体動画はただの「痛い動画」レベルに成り下がってしまうということである。

続編はこちら→神秘のヴェールに包まれた、日蓮正宗宗務院。

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