宗教とは何か?その「問い」自体が、人間であることの証明。

少し間が空いてしまいましたが、このブログを使い、約一年弱、主に顕正会に関するコンテンツの生産を続ける中で、

わかってきたことをシリーズ化してお伝えしています。

なぜならそのことは、この度、僕がブログタイトルを変更した理由と直接的に通ずる要素を含んでいるからです。

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宗教のブログ「偶像の輪郭」

この、新タイトルですが、

恐らく多くの方が、「何のこっちゃ?」と、首をかしげているかもしれません。

コンセプトについては、読者様各位のイマジネーションによって、それとなく察して頂けているとは思いますが、

まず、このブログが主に「宗教」のあれこれについて扱っていくこと自体に大きな変更はありません。

既に当方では、大石寺界隈のみならず、アブラハムの宗教をはじめ、様々な宗教に関する話題に触れてきていることからも分かるように、

僕の中で、興味の対象となる領域は日々拡張され、関心の幅は広域に及んでいく一方です。

いわずもがな、大石寺界隈について考えるにしても、これは「宗教」という大きな概念に属する、ひとつのカテゴリーでしかないわけで。

そういった括りを超越して、更に抽象化した全体観、

広大な枠組みの中から捉えていくことで、改めて見えてくる日蓮信仰の特質。

あるいは、自己の実践的な経験経験から映し出される、他の宗教観。

これらを、見つめ、理解し、考え、導き出された定義を「智恵」として体系化していくことは、僕にとってまさにエンターテイメントそのものであるし、

最奥、深く掘り進めれば、それは「人間そのもの」について考えることと同義であることに気付かされます。

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「信仰をする」とはどういうことか?「宗教性」とは何か?

抽象的で、およそ終着点の見えない論題ではありますが、だからといって、この途方もない、根源的な問いから決して目を逸らすことなく、

粘り強く探求していくこと自体に、宗教性の錬磨、人格的な向上等、様々な価値のある意義が存するのだと。

そう強く思うと同時に、また、その過程において、何か神秘的な深い感慨を覚えるものです。

これを「諦観」と呼ぶと、それはどこか烏滸がましいような気もしますが、

「信仰」ということと、あくまで「自立的」に対峙していくプロセス、

即ち、必ずしも特定の教団に帰属する教理をベースにすることなく、

自主的に、人間の思考の中から宗教的概念を摘出し、その存在を明らかにし、洗練し、より具体化させていく。

その知的営為自体に、大きな喜びと見い出せたならば、

尚且つ、知的好奇心を充足を得ることができたならば、

そのものをもって「信仰」と呼ぶことができるのではないか?

更に言えば、これこそが人間の宗教的営為の極致ではないか?

そのように、感じているのです。

何のためにあるのか?なぜ発生したのか?

「宗教って何のためにあるの?」

昔、お付き合いをしていた女性からそんな漠然たる質問を受けたことがあります。

「何のため?」

それは、どのようなものに貢献する性質を宿しているのか?

と言い換えることも可能と思われますが、

普通、一般的な生活を営む上で、「宗教」について深く考察する必要性などというのは極めて希薄でしょうから、

このような次元の問いというは、世間でありふれたものであって、決して珍しくはないのだと思います。

「必要は発明の母」

という言葉があるように、基本的には何かしらの要請ありきで、ある概念や物体が生み出されるわけですから、

「今、何に使われているか?」は、ともかくとして、

「そもそも、何のために生み出されたのか?」を、知りたければ、起源を尋ねていくことで、到達した結論を基に理解を得ることができるはずです。

では一体、宗教は何のために作られたのか?

この問いを根源まで遡っていきます。

すると、「宗教」とは、イコール「人類史」なのです。

つまり、人間が生来的に持ち得る「思考」、人間そのものが、まさに「宗教」であり、

「なぜ宗教が発生したのか?」という問いを明らかにするためには、

とりもなおさず、「なぜ人間が発生したのか?生み出されたのか?」

という、壮大なる「宗教的な問い」に正面からぶつかることになります。

人間は宗教的存在でしかあり得ない。

人間はどこまでいっても「宗教的な存在」という域を脱することはありません。

どういうことかというと、

まず、人間と動物の生物学的な「違い」について考えてみます。

これ、意外と難儀なテーマながら、実は、至って単純な一つの回答として結ぶことができます。

ズバリ、それは「前頭葉」です。

前頭葉は「結果を予測する機能」を司っている脳の部位であり、

アナロジカルに考えたり、反対に「原因」を追究し解析する能力に長けているのです。

人間は他の生物と違って、この前頭葉が著しく発達しています。

この人間の資質そのものが、生まれながらにして組み込まれた、宗教的思考を発生させる装置なのです。

例えば、「サリン」などには、脳を「必要以上に」覚醒させる成分を含まれていることが知られていますが、

これによって、「意図しない」にも関わらず、記憶が次々と呼び起こされ、不眠などといった、健康を害する症状も同時に確認されています。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」で、

この「薬物投与」によって、必要以上に与えられた能力は、かえって理性によるコントロールの不能を招き、むしろ有害となることを示しています。

人間に生来的に与えられた、「高性能な前頭葉」。

それは、例え今世というものの終焉を迎えたとしても、尚、

「その先があるのではないか?」

と、考えが及んでしまう。

まさに、生物の器質的な「宿命」であり、人はそこから逃れる術を持ち合わせていません。

ではなぜ、人間にはそのような機能がインプットされているのか?

誰の手によって…?

と…、また宗教的な問いにぶつかってしまいました。

人間はテクノロジーによって認識できる範囲の「外側」について考えずにはいられない。

そのような性質自体を「宗教性」と、広義に呼べるのではないか?

僕はそう思うのです。

考えてしまうことについて、考える。

逃れることのできない難題に多角的な視点から分析を加えながら、

あえて立ち向かってみる。

そこに「宗教を考える」面白さがあるのです。

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