創価学会や顕正会の偽本尊批判がバカバカしいと思う様になった理由。

僕は過去、顕正会の本尊の批判をすることに凝っていた時期がありました。

世間に、そして一人でも多くの方に「顕正会では絶対に救われない」ということを周知させたい一心で、

顕正会の本尊が「ニセ物」であることを立証し、

その事実を揺るぎないものにするために精査を重ね、

結果的に多くの時間と労力を費やしたのです。

もちろん、それは決して何か真新しい試みだったわけではありません。

既出の関連資料を閲覧し、それらをまとめたものに、僕の個人的な考えを加えたごく簡単な内容に過ぎません。

しかし、それらの作業は甲斐あって、作成した記事は、検索上位表示を果たし、

結果、沢山の方に閲読して頂けたことで、当初の僕の目的は一分達成することができました。

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変化した本尊観。

その後、この「ニセ本尊」という概念や、「ニセ本尊」という呼称が用いられていること。

この事実を、一旦、日蓮正宗信徒という立場を離れ、客観的に眺める中で、

そういったものの見方に対し、徐々に懐疑的になり、現在ではある種の嫌悪感すら懐くようになりました。

今回は、その心中を披瀝すると共に、その理由についても言及してみたいと思います。

長いですが、「ニセ本尊批判」に傾倒している方においては、最後まで読んで頂くことを切に願う次第です。

「本物か偽物か」を決定付けるのは本人の主観。

「荘子」の中で、「一切の偏見にとらわれない」、「天地自然と一体」という境地を説明する際の、一つの例え話に、

「胡蝶の夢」というものがあります。

以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

夢の中の自分が本当の現実なのか?

それとも夢から醒めた自分が本当の現実なのか?

これ、一般的な通念では、普通、「夢の中の自分は現実ではない」となります。

ところが、最先端の「認知科学」の見地からこの事象を説明した場合、

「どちらも現実」という、意外な答えが導き出されます。

現代の科学における躍進的な解明は、まさに上掲の「胡蝶の夢」を実証しているのです。

良くカタルシスなんていうことが言われたりしますが、

映画を見ることに集中することで、強い臨場感を得て、まるでその映画の中に自分が入り込んでいるような感覚を引き起こす精神作用があります。

「本体である自分」の周囲で起こっている現象には無頓着となり、

映画の中での出来事の方に強く意識の影響を受けている状態ですね。

この時の「現実」を認知科学では「映画の中の自分」と定義します。

その時、その瞬間、自分が主観的に感じ取っている「リアリティー」こそが、「本物」であり、

またその時、その瞬間、確かに「本物」であった物事というのも、そこを離れてみると

「それはニセ物であった。」

といった様に、「新たな」定義が加えられます。

本人が過去の事象に対して定義を与えるのです。

つまり人は、過去への「認識」を変化させているに過ぎず、

それは全て本人の主観や、「現在の世界観」に委ねられていると言えるわけです。

日蓮正宗に移っても尚、顕正会で得た体験を「功徳」だと肯定する婦人。

こんな婦人の方がおられました。

その方は、顕正会から日蓮正宗に移籍したことで、顕正会の本尊が「ニセ本尊」だったと判明し、

また、そのことを頭では理解したにも関わらず、

顕正会時代に「病気が治癒した」という体験を「功徳だった」と言って憚らないのです。

これを日蓮正宗側の理屈に当てはめて考えれば、「その現象は魔の通力であった」という答えに帰結するでしょうし、

教団の側はそういった認識を本人に与えようとします。

しかし、婦人は「顕正会の会館にある本尊はニセ物だったのかもしれないが、

戒壇の大御本尊には信じる心がしっかりと届いていたからこそ功徳を頂けたのだ」という論理を展開します。

これも日蓮正宗側にしてみれば、顕正会に所属していた以上、「血脈」の上からそれはない、勘違いだ、魔の通力だとなるでしょう。

ところが、その婦人の方にとって、その現象が「功徳」であると定義する以上、

そちらの方が「本当の現実」なのです。

その時、その瞬間に本人が感じたこと、そのリアリティーこそが紛れもない「本物」なのです。

つまり、過去に起こった事象そのものを変えることは不可能ですが、その事象についての認識を変えることは可能であり、

現在の本人の世界観から主観的に生み出された認識こそが「本当の現実である」ということです。

その婦人の、その時、確かに「顕正会の本尊に救われた」という「本当の現実」に対し、

「あれは誑かされていたのだ」と、殊更に認識を変えたところで、

果たしてその本人にとって何か有益な結果がもたらされるのでしょうか?

僕はそのままで良いと思います。

過去への否定

よく、創価学会や顕正会から日蓮正宗に移った方が、

「ニセ本尊に拝んでいたから生活が立ち行かなくなった」とか、

「ニセ本尊に拝んでいた間の人生は無駄であった」

と、口ぐちに語る姿を目にします。

これは現在の信仰の正当性を証明するために、過去の認識を変化させているだけに過ぎません。

現在の所属団体の正しさを、あくまで自分の中で証明するための「材料」に過ぎないのです。

詰まるところ、「功徳」と呼ばれる現象というのは、個人の強い信念が引き寄せた一つの結果に過ぎません。

その信念を補強するため、人は過去に対し、主観的に様々な定義を加えます。

身近にいる「かわいそうな人」

僕の身近にとってもかわいそうな人がいます。

かわいそうな人は母親に対し、

「自分が子供の時に好きなものを買ってもらえなかった」

ということを他人に対し、恨み事のように滔々と語るのです。

しかし、母親は全くそのようなことはなかったと主張します。

欲しいと言えば都度与えたし、そこまで不自由にさせた覚えはないと。

母親の方の主張が本当なのかもしれません。しかしそれは、言ってしまえば「どうでも良いこと」なのです。

あるのは互いの認識に対する「ズレ」だけです。

しかし、この「かわいそうな人」の主張というのは、「現在の自分の不幸の原因を他者のせいにしている」というのが本質です。

「現在の不幸を立証するための材料として、過去への認識を作り出しているだけに過ぎない」ということです。

今後、かわいそうな人は、現在の不幸を「自分自身で解決しなければならない課題」として、しっかりと対峙できるようになるまでは、

残念ながらいつまで経っても「現在の不幸」から脱却することはできないでしょう。

創価学会や顕正会から日蓮正宗に移る理由。

創価学会や顕正会を辞めて、日蓮正宗に移ろうというときに、

「何が目的か?」ということを考える必要はあると思います。

日蓮正宗に属し、組織の権威や主張を笠に着て、

「あの本尊は自分の不幸に陥れた元凶だ!」

と声高に叫ぶことを、自分の現在の不幸な状況を「肯定」するための手段として利用したいだけであったならば、

先程の「かわいそうな人」と本質的にはなんら変わりありません。

創価学会や顕正会の方は、少なくともその時、その瞬間は「救われていた」はずなんですから。

現在の自分が置かれた状況を正当化するために「本尊」を持ち出し、創価学会や顕正会を攻撃したとしても、

それは本当の意味で「幸福になる手段」ではないはずです。

勿論全ての人が、そうだと断定するわけではありませんが、

そのように見受けられる方が多いのは切実な現状です。

外部から見た「偽本尊批判」。

日蓮正宗が、「ニセ本尊批判」を行うことによって、日蓮正宗が社会からどういった印象、認識を受けるか、

かえって「評価を下げる」のであるならば、検討し、活動内容を改める余地があるということです。

「ニセ本尊」という概念は、日蓮正宗側の世界観から論じられるものでしかないわけで、

そういった偏執的な思想を揚言する行為というのは、

世間から見たら、宗教的紛争を助長させる一種の

「ヘイトスピーチ」

にしか映りません。

確かに、創価学会や顕正会の横暴というのは、社会秩序という側面から見たら、決して看過できるものではありません。

しかし一方で、宗教的な側面から見れば、それは彼らの信仰を侮辱する行為でしかありません。

ニセ本尊 チラシ

確かに日蓮は鎌倉で辻説法を行いました。

しかし、時代背景というものを考慮する必要があるでしょう。

当時の常識をそのまま現在に当てはめるのはいかがなものかと思うわけです。

当時、天台智顗の教相判釈は、常識として高い説得力を有していました。

日蓮の生涯は、その解釈に従い、あくまで、その行者という立場から、極めて正統な理解を世に弘めようという一人の「出家」且つ「宗教学者」としての試みだったのです。

しかし、現在考古学的な研究が進む中で、法華経自体が数ある大乗経典の一部に過ぎないことが判明し、

鎌倉時代の宗教的価値観は瓦解しました。

法華経を正しさを証明する「無量義経」も「偽経」でした。

加えて、在〇会などのヘイトスピーチが大きな社会問題としてクローズアップされています。

日蓮の思想をそのまま現代に反映させようとする教義信条の限界。

そういう意味で、今の日蓮正宗は、その教理の根幹にアナクロな問題を抱えていると同時に、

ドラスティックな変化が求められているのかもしれません。

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創価学会員や顕正会員は、彼らの本尊によって救われている

先程の「映画の中の自分」の例えに重ねて考えると、

創価学会員や顕正会員は、まだ映画の中にいるわけで、彼らの「現実」は紛れもないリアリティーを帯びています。

映画が終われば、その現実はニセ物の現実として定義が書き換えられてしまうのかもしれません。

しかし、彼らはまだ映画の中にいるのです。

その映画の具体的な内容については、彼らの発行している機関誌などから知ることができるはずです。

「空」、「唯識」、そして「量子力学」

更に言えば、所詮、世の中の全ての物事は「幻」であり、

個人の世界観によって投影された虚像に過ぎないのです。

このことを仏教では「空」や、

「唯識」という教義体系で説明されます。

般若心経には「色即是空、空即是色」という一節がありますが、

こういった思想は、実は、現在の「量子力学」の見地からも実証されているのです。

全ては同一のエネルギー体であり、物事はそのエネルギー体の変化によってもたらされている。

そしてその変化の形態というのは、「本人が観察することによって初めて確定している。」

逆に言えば、その物事というのは、本人が観察するまでは、一切、確定していないということです。

要するに、主体である信仰者の認識を抜きにして、その本尊が正しいか間違っているか、

功徳を生じる真の法体か、魔の住処かという論議というは本来的に成り立つものではないから、はっきり言って「不毛」なんですね。

その答えというのは相対的であり、まるで普遍性がないわけです。

如何なる信仰の対象も、主体である信仰者の定義によってのみ「正邪」が確定している。

言い換えれば、定義を与えているのは「信仰者」の側であり、

その信仰者によって生み出された、本人の世界観のみが、その本人にとっての「真実」。

しかしそれも本当は「幻」なんだというのが「妙理」であり、「実相」なんです。

ニセ本尊批判が完全に間違っているという極論を言いたいわけではありません。

創価学会や顕正会の横暴に対し、一定の抑止力として機能しているのもまた事実だと思います。

しかしそういった行為を見聞きする中に、僕がヘイトスピーチと同様の嫌悪感を懐くのは、

物事に二面性を無視した、一方的な価値観の押しつけという偏執的な態度。

そして他者の信仰をなじる言動そのものが、得も言われぬ「不快感」をもたらしているからに他なりません。

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『創価学会や顕正会の偽本尊批判がバカバカしいと思う様になった理由。』へのコメント

  1. 名前:ユタ 投稿日:2015/11/23(月) 22:00:05 ID:8829ce2af 返信

     こんばんは。

     今回記事内に使われてる写真が……w
     私が拙ブログ内で意見記事を書いたら、先方さんのコメント欄で私のことが非難されてました。
     紹介者からも、「せめて、先方の御住職が了承済みか否かの確認を取ってからにしろ」と、注意されましたよ。
     ですが、やっぱり私には違和感が大き過ぎて賛同できませんですね。
     私は自分が信仰していることを周囲に明かした上で、その振る舞いを見て頂くことで、この信仰に興味を持ってもらうという方式に切り替えましたよ。
     何せ、相手は一般人ですからね。
     宗教に対する風当たりが強い中、やはり街頭折伏は……何か違うと思うんですよね。
     おかげさまで興味を持って頂けた方々が出るようになりまして、その方々に対しては積極的に仏法の話ができるようになりました。
     これはなかなかの前進で、それが正当だと思うのですがね。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/11/26(木) 21:54:32 ID:451fb27c3 返信

      ユタさんへ
      こんばんは。返信が遅くなってしまってすみませんm(__)m
      そうです、記事内で使わせてもらった写真は、彼の武闘派の方のブログが出典です。
      先方の記事のコメント欄確認しました。
      陰口言わないで、直接ユタさんのブログに投稿したらいいのになぁと思いました。
      ネットの世界はお互い顔の見えない場だからこそ、あえて本人に対して本音をぶつけられるのというのが利点だと思うんですが‥。

      “私は自分が信仰していることを周囲に明かした上で、その振る舞いを見て頂くことで、この信仰に興味を持ってもらうという方式に切り替えましたよ。”

      正当だと思います。記事に書いた通り、本尊に関してはさることながら、「破折」という行為に対してほとんど価値を見いだせなくなりました。
      頑張ってる方には失礼かもしれませんが、これが僕の今の本音です。勝って満足感に浸ること以外、特に得られるものはないですし、大体、お釈迦さまがそのように仰っていますしね。
      どうも偽善っぽくて気持ち悪さを感じています。

  2. 名前:山門入り口 投稿日:2015/11/23(月) 22:25:01 ID:83a1e3fe1 返信

    >私が拙ブログ内で意見記事を書いたら、先方さんのコメント欄で私のことが非難されてました。
     
    意見を書いたら非難されたてw
    だから日蓮正宗はと言われるんですよね。

    自分達の本尊を同じように扱ったら目くじらを立てて怒るくせに同じことを平気でやる。
    学会の偽本尊だからと言うが、ミミさんも書いているが、所詮は主観が大きいですからね。(ぶっちゃけ話を書くと苦情が来そうだけどw)

    >紹介者からも、「せめて、先方の御住職が了承済みか否かの確認を取ってからにしろ」と、注意されましたよ。
     
    了承の有無など関係ないでしょうね。
    了承がなければ、了承してから行えとなるのか?
    了承があれば、どうなるの? となるでしょう。
    問題があると思うから苦言を言うのが問題みたいなところは、顕正会と同じカルトでしかない。

    本尊問題にしても、自分の所の本尊問題を棚上げにして、顕正会、創価学会と言うところが、困った所だと思いますよ。
    それに二極論な思考しかできないで、仏教の中道と言う考えが日蓮正宗には無いからな。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/11/26(木) 22:06:57 ID:451fb27c3 返信

      山門入り口さんへ
      こんばんは。対応が遅くなってしまいました。すみませんm(__)m
      “苦言が言うのが問題”
      仰る通りですね。これ、組織の良し悪しを測る基準でもあると思います。
      真相に迫るとお茶を濁す。
      “中道という考え方”
      何かあれば、「仏教は中道ですから」と、一つの逃げ口上として時折利用させることもありますけどねw
      そもそも、我田引水、牽強付会で骨子を組み立てていますから、どうとでもなりますね。

  3. 名前:(勝手に)顕正会代表 投稿日:2016/01/31(日) 10:33:28 ID:f495301e0 返信

    なんかね、そんな気もします。創価の沖浦克治という人の自由な宗教観を読むと…
    救われた気持ちになった、楽しめた、というのならそれが一番では?とか。

    それにしても、正宗は排他的ですよね。宗門、信徒団体問わず。

    https://www.youtube.com/watch?v=bSTEgCwtMSQ&index=103&list=PLKUnAuLQ6a_uGp
    VZYCJr2yJMyFRi8G9dR
    樋田氏、学会員宅突撃
    https://www.youtube.com/watch?v=cSL1niqqzJE&list=PLKUnAuLQ6a_uGpVZYCJr2yJM
    yFRi8G9dR&index=100
    妙観講員、学会幹部宅突撃

    なんかね、宗門のこういうのを観ちゃうと、魔にでも取り付かれているんじゃないかと思ったりもする訳ですよ、「あなたのやっているのは間違った宗教ですよ!」とか執拗にまくし立てている方が…。嫌がらせか?と。

    まあ、顕正会の「大御本尊を捨てた学会員を救おうキャンペーン」も大きなお世話かも知れませんが…^^;

    https://www.youtube.com/watch?v=VgbNr1tmDCc
    超自由思想、謎の教学、創価学会の好青年。
    https://www.youtube.com/watch?v=BfCffpH7Kzw
    何と、顕正会員から「信じる者は救われる発言」。リベラルになったものです

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/01/31(日) 22:35:15 ID:3bbe8b453 返信

      (勝手に)顕正会代表さん
      こんばんは(^^)度々の投稿ありがとうございます。
      贋作か否かの鑑別というのは、唯物的な見方に囚われた価値判断でしかなく、
      本尊という概念は、形而上の話で、その次元を通り越しているんですよ。
      だから、顕正会が「ニセ本尊」と言われてピンとこないのも納得できる話なんです。
      そもそも顕正会員は、会館の本尊の向こう側に、戒壇本尊を拝しているわけで、本質的には遥拝なのですから。
      その旨について所感を綴った記事を作成しましたので、今週末あたり投稿する予定です。
      同意を頂き嬉しかったです。今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m

      • 名前:(勝手に)顕正会代表 投稿日:2016/02/14(日) 00:20:53 ID:a252a4278 返信

        ミミ殿 ご返事恐縮です。

        「本尊という概念は、形而上の話で」…難しくて私の頭ではよく咀嚼できませんが、要は「心中での感じ方、主観によって、本物の本尊にもなれば偽物にもなる」といったような意味合いでしょうか。記事内容も参照させて戴くに…。
        すると、究極的な話、イワシの頭でも、是を本当に信じ切っている人からすれば、其れはその人にとっては列記とした本物の、力用のある御本尊ともなる、という事になるのでしょうかね。

        「顕正会が「ニセ本尊」と言われてピンとこない」…恐らくピンとは来るのだと思いますよ。ただ、会は其れを隠し続け、会員は心に蓋をしているだけで…。然るに、是が切欠で退転というか脱会してしまう人も結構いる訳ですよ。其れも隊長クラス以上で。私はコピーならコピーで良いので、きとんとそれでも大丈夫だという事を、浅井会長は文証理証で以て内外に解説をして欲しいですね。

        「そもそも顕正会員は、会館の本尊の向こう側に、戒壇本尊を拝しているわけで、本質的には遥拝なのですから」…是は其の通りだと思います。そう、顕正会の勤行の本質は、大御本尊への恋慕渇仰です。其れを分からぬ宗門の者共は、「顕正会は大御本尊を捨てた」などといい加減なホラを吹いて攻撃してきますが、とんでもない事です。
        但し、幾ら本質は遥拝でも、目前の形木本尊が偽物であっては、大御本尊に繋がらないと思われますので、やはり、其の辺りのところをキチンとして欲しいです。或いは、やっぱり「窪み」システムを導入するか。

        • 名前:ミミ 投稿日:2016/02/15(月) 21:00:44 ID:47ed83538 返信

          (勝手に)顕正会代表さんへ
          三次元世界では基本的に「時」に抗うことはできません。物質は悉く風化したり劣化したりするわけで、この石だけ時間の影響の外にあるというものはないですね。
          時は四次元より上と定義されますので、四次元未満というのは、つまり、その支配下にあって逃れる術はないということです。
          人間の肉体も物質の範疇に収まりますので、老化を避けることができません。ところが、僕らは「時」を早く感じたり、遅く感じたりすることがあるじゃないですか。
          これは肉体と魂が一体であるかのようで、実は別々に機能していることを示していて、
          このリアリティーというのは、意識が四次元の支配下を超越していることの証左なんです。
          ニュートン力学が三次元以下でしか通用しないように、「信仰」というのも、僕たちが常識的に扱える範疇を凌駕していて、そもそも手におえるテーマではないってことですね。
          野菜だけ用意されて、さぁこれで肉料理をと思っても無理でしょうw
          唯物的観念を基軸に信仰を捉えようとしても、部分感の論証は可能ですが、本質に迫ることは無理ゲーなんです。
          あ、窪みシステムに「いいね!」有難うございますw

  4. 名前:いおなずん 投稿日:2016/02/14(日) 14:05:29 ID:ea5421ab4 返信

    そもそも、「ニセ本尊」という言葉はだれが言い出したのでしょう。
    私に言わせれば、顕正会は御遺命守護の途中で日蓮正宗より解散処分を受けた団体です。
    解散処分の団体を潰すのだから当然本物の御本尊様は処分され、活動できなくするのが道理であるはずなのだが、顕正会には御本尊様がたくさんある。
    「ニセ本尊」問題を知る前から疑問に思っていました。
    ですから、「偽本尊批判」ではなく、「道理と矛盾する現実に気づくべき」
    の方がいいような気がします。
    今更のコメントお許しください。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/02/15(月) 21:11:49 ID:47ed83538 返信

      いおなずんさんへ。
      こんばんは(^^)
      プロてスタントを指して、あれは偽クリスチャンだ!というのは、カトリックの中でも余程保守的な考え方を持つ人間に限定されることでしょう。
      僕たちは彼らの信仰に対して、「そういうものだ」と、一般的には認識している。
      間違いも偽もクソもないですね。
      同様に、顕正会の彼らも「そういう人達」です。
      彼らから見れば、坊主の堕落や、形式主義的な考え方に矛盾を懐くのでしょう。
      ちなみに顕正会は「坊主不要論」に見せかけて、厳密に言えばそういうことではないですね。

  5. 名前:顕正会員 投稿日:2016/04/28(木) 17:43:18 ID:fad0211e7 返信

    大聖人様を信じている人が最後には成仏します。

    御遺命に背いていれば功徳はありません。

    顕正会の信心は間違っていません。
    現に信心を最後まで貫いた顕正会員の方は成仏の相を顕しているからです。

    成仏の相は
    凡夫の思慮の及ぶところではないですね。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/04/28(木) 21:15:34 ID:d510e34a1 返信

      顕正会員
      それはそれで、別に否定をするつもりはありませんが、
      ただ、外に向かって、「あれは黒いから地獄に墜ちた」とか言って裁いたりするのは良くないと思いますよ。

    • 名前:m,kozan 投稿日:2016/11/11(金) 09:40:20 ID:005909ce7 返信

      貴方にお尋ねいたします。

      ▼浅井氏いわく、「これまでは、希望に応じて塔婆の申し込みを受け付けておりました。しかし今後は、顕正会においては塔婆は立てない、ということにしたいと思っております。なぜかというと、塔婆は仏法の本義から言って要らないのです。」と。

      日蓮大聖人は御書にかく仰せである。
      ■ 我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。(草木成仏口決 文永九年二月二〇日 五一歳 522)
       この草木成仏口決は、人本尊開顕の重書中の重書である開目抄の直前の御著作と系年され、その題名の如く、一念三千の深い法理から、非情成仏・草木成仏の深義の法門を示された重要御書である。

       凡そ日蓮大聖人の仏法の究極的目標は、外には広宣流布、内には即身成仏であり、その成仏の内、有情の成仏は「妙法蓮華経」の「妙法」にあり、非情の成仏は「蓮華」にあり、その有情・非情の成仏の大事を御説き下さる中で、非情の成仏の現実的な事実上の例証として、大聖人御自らが為されている塔婆供養を挙げられる段の御文である。

       しかも、この非情成仏・草木成仏の原理は、元々草木であるところの曼荼羅御本尊の御建立・開眼の深義にも通じる大事の御法門であり、その証拠に当抄の後半に、
       ■「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。」とあり、塔婆供養=非情成仏=草木成仏は、曼荼羅御本尊開眼の義と通底している重大事の御法門なのである。

       この重大事の御法門を軽々しく否定する顕正会こそまさに、■「当世の習ひそこなひの学者」ではないか。

       更にその後に、
      ■「草木成仏は死人の成仏なり。此等の法門は知る人すくなきなり。所詮妙法蓮華をしらざる故に迷ふところの法門なり。敢(あ)へて忘失する事なかれ。」とも御指南されており、貴殿は、この「大事の法門を知らずに迷っている大虚け者。」と大聖人様に厳しく叱られる者でははないか。

       しかも大聖人が■敢(あ)へて忘失する事なかれ。」努々忘れてはならぬぞよ。と仰せであるに、恥ずかしいことに顕正会はすっかり忘れ切って、塔婆不要の痴論を振りかざしているのである。

       また「中興入道御消息」には
      ■去(みまか)りぬる幼子のむすめ(娘)御前の十三年に、丈六のそとば(卒塔婆)をたてゝ、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはな(離)れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)、其の風を身にふ(触)れて畜生道をまぬ(免)かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふ(触)れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてら(照)し、孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水す(澄)めば月うつ(映)り、つゞみ(鼓)をう(打)てばひゞ(響)きのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題目を顕はし給へ。(中興入道御消息 弘安二年一一月三〇日 五八歳 1434)
      と塔婆供養の功徳は、故人のみならずその塔婆に縁するあらゆる「非情界の衆生」(※修正→ 有情・非情)の成仏の因縁と成り、また過去の先祖を成仏せしめ、更にはその願主とその眷属も今生で勝妙の大果報を得、後生には成仏の大功徳を得ること間違いなし。と仰せである。

      これほど尊く広大な塔婆供養の功徳を大聖人がお示しであるにも拘わらず

      ▼「塔婆は仏法の本義から言って要らない」と顕正会が言い放つその根拠を示してください。

       これら非情成仏・草木成仏の深儀である「塔婆供養」の大事は宗祖日蓮大聖人以来の日蓮正宗の重要な教義であり、日蓮大聖人様御自ら為されたその化儀・化法はそのまま富士大石寺門流において代々行われてきたのである。

       顕正会としても、平成16年以前は妙信講時代も含めて、故人の成仏の為に塔婆供養を会員に為さしめてきたのである。(もちろん三宝誹謗の大謗法団体である顕正会がいくら塔婆供養しても当然堕地獄必定である訳だが) 顕正会の言▼「塔婆は仏法の本義から言って要らない」のならば、それではなぜ▼「要らない」ことを会員に態々させてきたのか、その理由を明確に示してください。それはただ顕正会の金儲けのためだったのでしょうか。

      2、戒名についてお尋ねいたします。

       次に戒名について顕正会は以下の如く発言しています。

      ▼「御在世においては戒名などない。熱原の神四郎殿を見よ。顕正会においては戒名などは要らない。御在世に立ち還って、俗名のままでいきたい。いまこのように決めるのは、顕正会は広宣流布の団体だからである」(『顕正新聞』平成16年3月5日号)

       しかし、昭和59年4月に死亡した浅井氏の父・甚兵衛(元妙信講講頭)には、

      「直達院御法甚道居士」(『冨士』昭和59年6月号)

      との「戒名」を戴いている。

      要らないはずの「戒名」を何故貰ったのか、その教義的理由を明確に説明してください。

       総本山第9世日有上人「化儀抄」に御指南

      ■「仏事追善の引導の時の事、私の心中有るべからず、経を読みて此の経の功用に依って、当亡者の戒名を以って無始の罪障を滅して成仏得道疑いなし、乃至法界平等利益」以上。素晴らしいご返事お待ちしております。

      • 名前:ミミ 投稿日:2016/11/13(日) 22:33:57 ID:d60b2e413 返信

        m,kozan
        色々と勉強になりました。ありがとうございました。

  6. 名前:numanichi 投稿日:2016/07/09(土) 13:21:15 ID:9fed0f986 返信

    信仰とは我が命が信じる対象に染ると言うことです。
    幕末、黒船の背景には一神教があり、その信仰の下に人の行為がある訳です。
    当時、日本は鎖国ですから「ほっといてんか」って言ってもこちらに大砲を向けて開国を迫るのです。こちらの事情や自由は通りません。
    オウム真理教やイスラム原理主義を拠りどころする人達は彼らの正義の為に人を殺し、自らは命を落としたとしても幸福なのです。
    貴方は貴方の愛する人がそれらの者に殺されても彼らの幸福を肯定するとでも言うのですか?

    相手の信仰を尊重する世界なら紛争はありません。

    日蓮正宗は末法の法華経でありますから、唯一の根源の法であります。
    排他的に感じるかもしれませんが、決してそうでは無いのです。
    仏が悟った法則を知らせているだけで、他を排してるのではなく、生かすのです。

    我が己心の邪は外の世界にもあり、外の世界の邪を破折することで己心の邪を滅するのです。
    せっかく正宗に帰依したのですから、凡夫を自覚し我見を捨てて信行学を実践することを強くお勧めします。

    • 名前:ミミ 投稿日:2016/07/11(月) 23:17:42 ID:50f712d72 返信

      numanichiさん
      まず我見とはどういった領域を定義しているのかが不明です。
      仮に「その考え方は我見だ」と指摘している側の認識自体が教条に違うものであったならば、その行為は「謗法」となってしまいます。
      そこで僧侶である所属支部の指導教師の裁断に一任しようというのが正宗信徒間における基本的信条であるはずですが。
      意見があるならば、「我見」などという言葉を用いずに、あくまで「numanichiさんの言葉」という前提で対話を始めるべきだと思いますね。
      そもそも“他を生かす”という教義解釈こそ我見ではないんですかね?

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