【ほんとうの日蓮】日本仏教の中でも「顔のみえる」希有の宗教家。読後感想。

先日、読了しました。

買って良かったと素直に思えた一書です。

また、こちらは2015年5月10日に発刊されたばかりということで、出来立てホヤホヤ。

この著書の堅実なところは、筆者の「島田裕巳」さんご自身が、

日蓮上人について9年間、「平成新修日蓮上人遺文集」の勉強会に足を運び、

学び得た知識を元に著されているという点です。

そしてこのことが一体何を意味するのかというと、

島田さんは著書の中でこのように述べています。

この勉強会に参加して以降、私の宗教に対するアプローチの仕方に変化が生じたように思われる。(中略)

私は、それまでとは異なり、自分がたんに外部から、それぞれの教団の信仰世界に迫っているという感覚を抱かなくなった。

もちろん、信仰世界の内側からアプローチしているわけではないが、かといって完全に外部からアプローチしているというものではない。

また、著書前半には、平成15年、東京国立博物館で催された「大日蓮展」に訪れた際に、

日蓮自筆曼荼羅の迫力に衝撃を受けたときのお話が綴られており、

幼少期には、「日蓮」という存在が身近であり、自然と親しみを感じていたことを吐露されています。

「ほんとうの」と聞くと、何か批判的な内容が書かれているんじゃないかとか、

または、コピーライティング巧みに、消費者の購買意欲に訴えかけているように受け取れなくもないわけで、

もちろん、そういった効果も狙いとしてはあるのかもしれませんが、

実際読んでみると、僕のような「日蓮ファン」には「ほっこり」してしまうような、愛のある内容。

つまり、いわゆる「批評」などにありがちな「冷淡さ」よりも

人格としての日蓮。

そして文化としての日蓮思想を個人的に愛し、

親しみを持つ「島田さん」の感情的な側面が強調された一書という印象です。

内容の大まかな趣旨は、様々なステレオタイプによって歪められた「日蓮像」を、もう一度一から見直そうではないかというお話。

遺文の真偽を洗い出し、正確性が認められるものに限定して、「ほんとうの日蓮」に迫ります。

ちょっとした思いつき。

著書を読む中で、島田さんの考え方に深く頷いた箇所を引用したいと思います。

実は、この点については、意外なほど注意がいかないものなのだが、個人の主張や思想は必ずしも生涯にわたって一貫したものではない。また年を重ねるにつれて変化をとげていく。

さらにいえば、書き記したもののなかには、十分に考察を深め、確固とした根拠にもとづく強固な主張や思想もあれば、

周囲の状況やその変化に応じて生み出された「ちょっとした思いつき」も含まれている。

そうした思いつきから、新たな思想的な展開がはじまることもあるが、たんなるアイデアや構想にとどまり、発展がないばかりか、後で本人も忘れてしまうのである。

文筆をなりわいとしてきた自分自身のことを振り返ってみると、いかにそうしたことが多いかが分かる。

それは私がだらしないということではないだろう。どんな人間にも起こることである。

したがって、日蓮の遺文ということに則して言えば、ある一つの遺文のなかに述べられているだけの事柄があったとして、

それが日蓮の思想の核にあるものととらえることは必ずしも正しいことではない。

それが、他の遺文の中で述べられていないのなら、「ちょっとした思いつき」である可能性を排除することはできない。

従来の議論は、こうした、ある意味、常識的な見方を無視してきたのではないだろうか。

日蓮上人は膨大な量の文章を後世に残しました。

確実に真筆と判明している範疇だけでも、その数、新書(250ページ前後)に例えるならば「6.6冊分」に相当すると、著書では説明されています。

しかしそのような環境がかえってアダとなり、それぞれが宗祖の遺文を所々切り取り、都合よく繋ぎあわせて牽強付会の説を展開しています。

勿論、十人十色で文意の解釈は人それぞれ、趣向によって異なるところではあるにせよ、

同じ宗祖を仰ぎながら、「正邪」争いに拘泥している現状はもはや見るに堪えません。

今なお、「文証」を依拠とした甲論乙駁が各所で繰り広げられていますが、

僕個人としては、まずは宗祖に求める「無謬性」を取り払うことが先決の様に感じてなりません。

言語なんて、使い勝手の悪い道具に過ぎません。

意思伝達手段として極めて不完全であり、そこには必ず多くの勘違いや、争いを生む要素が内在しているのです。

「宗祖」は完璧だ。

なぜなら「仏」だから。

まずこの既成概念を払拭しなければ、「ほんとうの日蓮」は見えてきません。

僕の憶測でしかありませんが、島田さんは著書の中でそのようなことも含めて読者に伝えたかったのではないかと思うのです。

「ほんとう」の姿を知り、その上で事実を受け入れ、

それでも日蓮が好きだ。というのであれば、これはもう争う余地などないのです。

「ほんとうの日蓮」を知るための有益な材料として、この島田さんの著書を是非購読してみてはいかがでしょうか?

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『【ほんとうの日蓮】日本仏教の中でも「顔のみえる」希有の宗教家。読後感想。』へのコメント

  1. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/10/05(月) 13:49:45 ID:6a159122c 返信

    ミミ 様

    お邪魔します。

    昨日、在勤の御僧侶と話をしていて御書の読み方について、一番大切なのはその時の背景を理解することだと教えられました。

    御書はお手紙ですから、真意は当人同士しかわからない。。。そういわれればそうですよね!

    また、大聖人様の当時の仏教学をもとに書かれていますから、偽経も引用されていますし年代計算も今から見れば間違っているものも存在するそうです。

    無謬性信仰というのはカルトの発火点ですよね。

    大きなくくりで見ていかないと、聖典のもつ本当の意味を見失うやも知れません。

    不可知論の上に堂々と立って、自らの信仰に確信を持つ。。。矛盾しているようですが、これがバランス感覚というものかもしれません。

    なぜ?と思うことや感じることが、素直に口に出せない状況は危険だと思うのです。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/10/05(月) 22:10:08 ID:7ab1bc796

      ポリ銀さんへ。
      時代背景大事ですよね。
      究極、その時代のリアリティーがない頭でいくら考えてもわからないことなのかもしれませんね。
      あくまで推測の範囲でしかないのだから、その時点で絶対的な定義などないんですよね。
      最終的には「信じる」しかないというのが答えで、論理思考とは相いれない世界なんだと思います。