山門の入口氏との法論の準備として

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このトピックには1件の返信が含まれ、1人の参加者がいます。1 年、 4 ヶ月前 (勝手に)地涌の流類 さんが最後の更新を行いました。

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    (勝手に)地涌の流類

    さて、縁あって山門の入口氏と法論?をさせて戴く事になった。法論という形式ではなく、ただの対話という事になるかも知れないが、いずれにせよ、本論に入る前に、そもそもどういう形式のものにすべきであるか、という事は協議して置きたいと思う。

    参加者は誰それで、期限はどれくらいで、文証(依文)は何で、双方の立場はどうで、といった具合にである。そうした取り決めは必要ないよ、というご意見もあるかも知れないが、必要あるかないかという事も含めて最初に論議して置くべきであろう。後で揉める原因になるから。
    特に、法論とするならば、当然、勝ち負けという概念も生じる訳で、そうであるならば「どういう状態を勝ち」、裏を返せば「どういう状態を負け」というのかという事は事前に決めて置かないと、トラブルが生じる事は火を見るより明らかであろう。

    山門氏は、当方の以下の問いかけについて、

    >貴殿のお考えである、宗祖のお考えとはどういうものですか?法義対立がある以上、脱宗を賭けて公開法論を行う事ですか?

    以下のようにご回答された。

    >他宗との法論に関して、宗旨替えをかけて法論を臨まれていたでしょ。
    >それは、現代でも受け継がれるべき事ですよ。
    >まして、他教団同士の法論なら宗旨替えを前提にするのは、日興門流なら当たり前のこと。
    >公開をしろというのは、言ったいわないて水掛け論になったり、勝ち負けの判定が出来ないからです。
    >素直に反論不能だから負けて認めることができるのなら、非公開でもいいでしょうが、そんなのは希ですからね。

    そういう次第であるので、大聖人門下にて異説あるならば「脱会脱講を賭けて」「公開にて」法論をすべきだ、とのお考えであると推察される。
    そうであるならば、やはり、色々と細かな規則を事前に取り決めて置いた方が良かろう。
    このトピックでは、そうした事を論じ合いたい。

    #4690 返信

    (勝手に)地涌の流類

    さて、今回は法華講員であられる山門氏と、顕正会員である当方の法論(若しくは対論)という事になるのだが、そうであるならば、山門氏は宗門側の論者として、当方は顕正会側の論者として参加するのが順当ではないかと思われる。

    >但し、大前提として、山門殿には宗門側としての論陣を張って戴きたく思います。
    >何故ならば、そうなってきますと、純粋な宗門VS顕正会の法義論争とは言えなくなってしまう事になりますので。亦、当方としても対処できなくなります。
    >そこで、法論をするに当たっては、日蓮正宗の教義を双方の大前提としたいのです。

    という当方のコメントに対して、山門氏は以下のように御返答くださった。

    >法論と言うわりには、随分、縛りが厳しいですね。

    当方としてはむしろ意外で、通常、法論をするならば、双方が自分の信心している教え、所属している組織の側に立つのは当然であるように思われる。古今、法論はそうして行われてきた。天台宗と法華宗、法華宗と浄土衆(安土問答)、田中智学氏と日蓮正宗(横浜問答)、顕本法華宗と日蓮正宗、身延(日蓮宗)と創価学会(日蓮正宗)(小樽問答)など。
    樋田氏も法論をよくするが、彼も「宗門側」の立場として、学会員、正信会僧侶、顕正会員、他宗他門との法論をしているように思われる。他の武闘派の面々もそうであろう。

    キリスト教徒のフロイスやザビエルが、何故だか念仏宗の立場に立って、法華宗(日蓮宗)と法論をする、などは聞いた事がない。

    例えば、法論の最中に当方が日寛上人の六巻抄を文証として提出した際に、「いやいや日寛上人は、ただの習い損ないですよ」などと切り替えされては、カオス状態になる。挙句、「そもそも大聖人などは、ただのお坊さんに過ぎません。御題目を唱えよなどとは法華経に書かれていません」などとされても、それはもはや宗門と顕正会の正邪を決する法論にはならないだろう。
    そういう議論はそういう議論で、別に無意味とは思わないものの、今回の主旨からは外れるし、混乱のもととなるので、今回はまずは「正宗内部で、顕正会と宗門のどちらの立場が正しいのか」というテーマで論じ合いたいと思う。
    「宗門の立場」というのを離れてしまうと、話は無限拡大してしまい、収集が付かなくなる事は容易に想像できる。だから、どんな場合でも、一定の前提が必要なのである。戒壇論がテーマである時、「そもそも三大秘法抄は真蹟が残っていませんからね」となってしまうと、話は文献学にまで広がってしまうであろう。

    そもそも、山門殿は法華講員であるので、現在の日蓮正宗を信じて居られるのではないのかな?
    さて、以下に、戴いたコメントに対して逐次、御返答致したい。

    >法論としての法義確認です。
    >(1)三大秘法は、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇でいいですね。
    >(2)日蓮大聖人は御本仏ですね。

    えゝ、全く問題ないと考えます。

    >法の部分は同じ認識だと思います。
    >だから法論は成り立たないのですよ。

    大きな部分ではそうであっても、もっと細かい部分に於いて違いがある訳ですよ。
    そして、だからこそ対立が生じている訳ですね。

    例えば、浄土宗も日蓮宗も禅宗も、釈迦は仏であり教祖であって、亦、仏典は小乗も大乗も仏説だと信じますね?という質問であれば、恐らく皆が、はい、同意します、と答えるでしょう。
    然るに、それでも宗派の別はあります。
    それは大きく言えば同じであっても、仏典の解釈であったり、重視する点に於いて違いがあるからです。
    結局、殆どの法論は「解釈論争」になります。
    依拠する経典が同じなので、後は解釈の違いの対立でしかない事になる訳です。

    現代では、近代文献学が進み、依拠する経典を何にするか、という法論も出てきましたが、古来の法論は双方が文証とする経典が同じであるところからスタートします。そちらの方がスムーズに行きますしね。極端な例を出せば、「そもそも釈迦なんて、ただの思想家で、絶対視すべきじゃないよ」という人とは法論は成り立たない訳です。

    >でも教義論争で、純粋な宗門と言うのであれば、日寛上人の通称日寛教学と言いたいところですが、大石寺の純粋な法義ではないから、日有上人以前の教義でなければ、純粋な大石寺法門は成立しません。
    それでも、こちらはかまわないですよ。

    まあ、三大秘法抄さえ依拠経典にして戴ければ、少なくとも戒壇論では、上の条件でも法論はできますが、普通、「宗門」と言えば現在の宗門を指すのであって、そうなると日有上人までの御指南に加え、日寛上人の教義を土台にしたものであるという事になります。

    日寛上人以前の教義は日寛上人のそれとは違っていて、六巻抄は勝手に日寛上人が付け加えた教義が連ねられている、という事があるのかどうか、となると是は是で大変な論題ですが、貴殿は法華講員ではなかったでしょうか?
    そして、恐らく法華講員であるからには、「現在の宗門の考え」に従属している筈です。そして、「現在の宗門の考え」に照らせば、日寛上人の教義も、それ以前の大石寺の教義も違いはない、という事になるかと思われますが・・・。

    「純粋な宗門」とは、一体、どの時代の宗門を指して居られるのでしょうか。日有上人の頃まででしょうか?それとも日目上人?或いは、日興上人?若しくは、大聖人御在世の頃のお弟子まででしょうか?

    まあ、取り敢えず顕正会と宗門との対立は、日達上人の頃なのですから、日淳上人の頃の大石寺で流通した教義を双方の前提とし、現在の顕正会教義と現在の宗門教義のどちらが、その前提上、正しいのかという事を論じるのが、一番順当ではないかと思われます。貴殿が、法華講員「として」法論をされるのであれば。

    >日寛上人の解釈以後の大石寺歴代の発言は、日寛教学の影響を受けている、純粋大石寺教学ではないのですから。

    うーん、ここまで言い切ってしまうからには、貴殿はもはや心は法華講員ではありませんね?こうなると、話は大分違ってきますが、まあ、本心はどうあれ、立場は正宗宗門側である、として戴けるならば、法論は可能でしょうね。
    まあ、日寛上人の遺文を文証としなくても、法論は(やや限定されるものの)可能ではありますが。

    >次に、議題としては、戒壇論に成るんでしょうね。
    >でも、法義でないから、法論には相応しくないし困った。
    >だから私は、話し合いて言ってるんですよ。

    事の戒法に就いて論じるのですから、十分に法論であると思われますが、まあ「話し合い」という事がよろしいのでしたら「話し合い」でも構いません。体裁や名称はどちらでも本質が重要ですから。
    まあ、宗門VS顕正会の御題は、戒壇論以外にも色々とありますけどね。

    >戒壇論は解釈論でしかない。
    >なら、誰が解釈するのかが問題。
    >単純にその時の法主でしょう。
    >いや、歴代の指南がてあっても、解釈するのは、当代法主ですよ。
    >それすら理解できないで、歴代が言ったからだから正しいとは成りませんよ。

    解釈論という話で言えば、先述の如く、あらゆる法論は解釈論という事になります(依拠文献そのものを議論する法論でなければ)。解釈に違いがなければ、日本は殆どが大乗仏教なので、依拠経典が同じである故に、法論なんて生じませんよ。

    さて、誰が解釈すべきか、というお話ですが、確かにそれは時の御法主という事になりましょう。
    但し、やはりそこには限度がありますね。御書に一切書かれていないのに勝手に付け加えたり、御書にはっきり書かれているのにそれを無視してしまってはいけません。あくまで、御本仏(仏宝、法宝)は大聖人なのであり、歴代御法主(僧宝)はその法義をお守りする、という立場ですからね。

    亦、歴代御法主も、それ以前の御法主の弟子であった訳ですから、当然、先師の御指南には従わねばなりません。宗の後継者は、会社の後継者とは種類が違うのです。会社の後継者ならば、その会社の全権限はその後継者に譲られた形になりますが・・・。
    第一、現法主だって前法主だって、大石寺御歴代の御指南は従うべきものである、という見解ですよね?

    >それなら疑義がある明治以後の歴代発言ではなく、疑義がない明治以前の法主の発言を出せばいい。
    >それを出せば、戒壇論は、顕正会側が正しいとなります。
    >まして、御書から国立戒壇の用語をだせば尚更。

    明治以後の御歴代に疑義がある、とはどういう事ですか?

    >証拠を出せないで、明治以後の歴代が言ったからてのは、通用しないでしょ。
    >逆に明治以前の歴代が使ってないのだから、問題有りても言えます。

    「国立戒壇」という言葉は使っていませんが、国立戒壇義はありました。
    まあ、それは法論が始まり次第、ご提示致しましょう。

    >それでも法論と言うことなら、文証の確認も必要ですね。
    >第一に「経」経文と御書ですね。

    そうですね。
    特に御書を中心に論じるのが良いかと思います。何故ならば、経文にて重要な事は全て大聖人が御書で説明されている筈ですから。
    さて、その御書ですが、日蓮正宗の御書に載っている御文、という事で宜しいでしょうか?
    それと、二箇相承や御義口伝、七箇相承、産湯相承も御書に準じると言えそうですね。

    >第二に「論」摩訶止観とかの論書。
    >第三に「釈」歴代の御指南とか。

    大聖人が御認めになった天台大師、妙楽大師、伝教大師の論は傍依とできるでしょうね。但し、彼等は迹門の大師に過ぎません。そこで、正宗門下の中での格としては、本門の大導師である日興上人の論の方が上ではないでしょうか。そこに、日有上人や日寛上人等の遺文が続きます。

    >ちなみに淺井会長の言葉は、釈以下ですから。

    当方は今まで一度も、浅井会長の言葉を文証とした事はありません。
    というか当方に限らず、あらゆる顕正会員もそうでしょう。
    逆に、浅井会長の言葉が文証となるのであれば、ここにわざわざ法論の必要はありません。そんな事が通るのであれば、始める前から当方の勝ちである事は目に見えていますからね。
    浅井会長の主張と現在宗門の主張と、どちらが正宗教義として正しいのか、というのがここでのテーマです。

    ちょっと道理外れのご指摘ではないでしょうか?

    【読者の皆様への追記】

    そうそう、今まで紹介した二人のコメントは、どこに書かれているかと言えば、以下の記事のコメント欄にである。説明が遅れてしまい、お読み戴いている方には申し訳ない。

    【群馬】における顕正会の動静。拠点は高崎の1カ所のみ。

    上のページのコメント欄が、この対論の切欠であった。故に、恐らく法論も上のページのやり取りの続きから始まるものと思われる。
    当方としては他に、山門氏作成の「顕正会をガツンと破す」の記事にも触れたいと考えている。

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