顕正会の説く「罰」とは?宗教者とは思えない卑劣な「罰論」。

やっぱり…やってたんですね。 「避難所での勧誘活動。」

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天誅、天罰!?彼らの「二元思考」は「公害」。

「顕正会の信仰に随順しない者は、あまねく不幸に見舞われる。」

「被災した原因は、顕正会が信奉する“日蓮大聖人の仏法”を蔑ろにしていること。」

「災難から逃れる術は唯一つ。顕正会に入会し、会長、浅井氏の教えを素直に実践すること。」

彼らの信条を端的に叙述すると、つまり、こういうことなんです。

強引な勧誘活動、その心根にあるのは、偏狭な善意、そして正義です。

惨事に乗じ、

被災者たちの苦悩、悲嘆につけ込んで、

思想の正当性をこれ見よがしに喧伝するのです。

小鼻をうごめかして、「ほら、言わんこっちゃない」と。

叩かれようが妬まれようが、そんなことで彼らは決して屈しません。

それで「本当に人を救える」のだとガチガチに信じ切っているからです。

燃えるような使命感に立脚する彼らの信念は、こうした布教活動によって更に補強、先鋭化されていきます。

害悪を撒き散らさないで下さい。

【鬼怒川氾濫による被害が大きかった地域は、特集号配布による逆縁者が多かった地域である】

「彼らは間違った信仰をしているから、こういう悲惨な目に合うのだ。私たちは正しい信仰をしているから守られるのは当然。」

こういう理屈で彼らの信条が成り立っているのです。

すかいみかんさんの言うように、「信心していて良かった、助かった」だけで良いんですよ。

それを内輪で喜び合い、内部で完結すれば良い話なのです。

そもそも、「功徳と罰」の線引きってなんでしょう?

これ以上社会に毒をまき散らさないで下さい。

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広島の土砂災害でも同様の煽り文句。

すかいみかんさんがいみじくも言い得ているので、

そのまま言い回しを拝借しました。

さて、過日の広島土砂災害に対して、顕正会は具体的にどのような見解を示したか、 振り返ってみましょう。

20140917091353

上掲は当時発刊された顕正新聞。

「この天変地夭こそまさに諸天の戒め。」

 要するに、 「あそこは日蓮大聖人に背いたから天罰が下ったのだ」

との趣意でしょう。

傍からみれば何か顕正会が「調伏」しているかのような気がして、気持ち悪いですよね。

彼らの目指すところは「広宣流布」でしょう。

到底「教えを広く宣べ、流布させたい」という人達の言動とは思えません。

人を脅して会員を獲得する。

災害の発生を耳にする度、

過去、そのような過激な思想に共鳴してしまった自分を恥じる思いに駆られるのです。

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『顕正会の説く「罰」とは?宗教者とは思えない卑劣な「罰論」。』へのコメント

  1. 名前:ユタ 投稿日:2015/10/05(月) 12:52:59 ID:18449649c 返信

     こんにちは。

     私も顕正会員だったので分かるのですが、多くの現役さんは、
    「他人の不幸は密の味」
     となるのだと思います。
     現に、パラパラ茜と名乗る顕正会員がブログで展開する自論などは正にそうとしか言いようがありません。
     被災地に折伏に行くというのも、実は被災地の人々を救いに行くのではなく、そういう行為をすることにより、
    「俺達はこんな目に遭っていないから幸せなんだ」
    「こいつらは仏法をやっていないから不幸なんだ」
     と思うのです。
     それを実感しに行くわけです。

     つまり、
    「人を不幸を蜜の味にしないと幸せになれない宗教である」
     ことが露呈しているわけです。

     で、それに気づいていない顕正会員達……ですね。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/10/05(月) 21:58:57 ID:7ab1bc796

      ユタさんへ
      ホント、仰る通りですね。
      しかし、その土壌には彼ら会員が「それ」に気づけないようにするための、巧妙なロジックがあるのも確かですね。
      撃っても撃っても起き上がってくるバイオの世界です。
      なんてったって世間のバッシングを「感激」に変えてしまうんですからね。
      生命の存続が脅かされるレベルまで到達しないことには「気付けない」でしょうね。

  2. 名前:ポリ銀 投稿日:2015/10/05(月) 14:02:27 ID:6a159122c 返信

    私は創価学会員も顕正会員も法華講員も、この一神教的系統の宗教を信じる者は、みんな他人の不幸が大好きになってしまうと思います。

    罰も功徳も方便のひとつなのに、それがすべてになってしまえば当然かもしれません。

    私の支部でお孫さんができないで悩んでいるご婦人は、私たち家族を見るといつも苦虫を噛み潰したような顔でにらんできます。娘さんが私と同年代で、不妊に悩んでおられます。何度も不妊治療に失敗していまして、住職さんにあわれなほど御祈念してもらっています。

    信心をしても血統主義の閉鎖的な考えから脱却できない罰。私には相思えてなりません。里子を養子に迎えて心温まる家庭を築けばいいだけなのに。。。

    どこまで行っても欲ぼけの乞食信心なのです。

    私の父は創価学会員時代に、たいした縁のない人の通夜に行くのが趣味でした。特に中の悪かった人や、根に持つ何かがある人の時は晩酌もお預けに走っていっていました。そして、帰ってくるなりニヤニヤしながら「黒かった」「口が大きく開いていた」などと、うれしくてしかたがないようでした。

    そんな夜はいつもより多めに酒を飲み、「今日は酒がうまい!たまんねえぜ!」って祝杯をあげるのです。嫌いな人の死相が悪いことこそが、信仰の無上の喜びだったのです。

    まさに絵に書いたようなルサンチマン!これ以上のルサンチマンはないのです。

    罰論は功徳論よりもやっかいです。

    • 名前:ミミ 投稿日:2015/10/05(月) 22:20:16 ID:7ab1bc796

      ポリ銀さんへ
      そのご婦人は本当に哀れですね‥。
      まずは現世利益を求める日本式仏教から卒業することからスタートした方が良いのかもしれませんね。
      もう釈迦の教えから程遠いスタイルになってしまっている。
      それに経済がぐんぐん伸びていた数十年前ならまだしも、明らかに時代錯誤です。
      いい加減、システムが陳腐化しているんでしょうね。
      まぁほぼ戸田さんあたりが作り上げてきたようなものをそのまま使っている感じなので仕方がないのでしょうけど。
      最新記事見ました。創価はそのことに気づいて大きく方向転換しようと画策しているのですね。

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